「料理王国」「隠れたファインプレー」より
「あの店の油はいいネ」。
明治大正の粋人たちは、洋食屋やとんかつ屋を評するのに、こんな言葉を交わしていたという。
揚げ物を扱う店にとって、油は「店の味」である。
ところが最近は、豚肉のブランド話ばかりが先行し、食べる方も評する方も、油の話には及ばない。
では「ぽん多本家」で、カツレツを食べてみよう。
薄狐色の衣に歯がサクッと当り、身質が密な肉にめり込んでいくと、豊かな肉汁と共に、甘い香りが口の中に広がって、なんとも愉快な気分を運んでくる。
これがこの店の油の香りである。
甘く優しい香りは、豚肉を盛り上げ、食欲を刺激する。
そしてカツが喉に消えていく刹那、再び甘い香りが鼻に抜けて、陶然とさせる。これぞとんかつという料理の醍醐味であろう。
カツレツだけではなく、穴子もキスも牡蠣も、この油によって味が生かされるのだから、たまらない。
「洋食屋にとっての油は、すし屋の酢飯のようなものかもしれません」。
四代目主人の島田良彦さんは、そう答えられた。
酢飯こそがすし屋の生命線であるのと同じに、どのような油を使うのかが、最も他店と差異が出るのである。
「うちは脂を掃除した赤身肉を揚げます。豚肉本来のあっさりとした味を、この油によって、コクと香りをのせるのです」。
最近はキャノーラ油や米油などを使うとんかつ屋も増えたが、豚肉に馴染み、風味を最も活かすのは、ラードではないだろうか。
「ぽん多本家」では、毎日1〜2回、ラードを1時間弱かけて炊く。
恐らく都内の洋食屋やとんかつ屋で、自らラードを作っているのは、この店だけだろう。
コクと甘い香りが強い牛脂を二割程度混ぜ、塊から火にかける。
最初は強火で、溶け始めてからは弱火にする。おたまで混ぜながら、色合いを見ていく。
「水分が泡となって出て行く、その泡の大きさと色合いで仕上がりを見分けます。炊きが甘いとカツを入れたとき吹いてしまう。炊きすぎるとコシがなくなって、焦げやすくなる。最良の一点を目指します」。
ラードの炊き方もまた、初代から続く、職人仕事なのである。
出来上がったラードは漉し、油かすは、マッシャーでつぶし、最後の一滴まで絞りきる。
「こうしてやると、脂も往生します」。
できた油は琥珀色で、甘く丸い、優しい香りがする。
こんな油で揚げられる豚肉は幸せだろう。
パン粉も喜んでいるに違いない。
そんな夢想が浮かんでくる、美しい油であった。
ラードはヘルシーではないという間違った情報から、他の油を使う店もあろうが、健やかに育った豚のラードは、我々の体にいい。
「ただし精製ラードは、油に味がなく、おいしくない」。
そのために手間暇をかけて、毎日炊くのである。
ラードだけではない。
沢庵も毎冬400本近くを、自ら手作りする。
ぬか床も毎日管理する。
米も味噌もお茶も吟味する。
明治から連綿と続く、日本の古き良き誠実な食堂の姿が、ここにはある。