<シリーズ食べる人>うなぎ編
牧元家では、鰻を食べることは、年に数度のハレの行事である。
ゆえに、スーパーで手軽に買うことなく、鰻屋に出向く。
それは軽井沢での出来事だった。
当時、上野「弁慶」の支店があり、別荘まで出前もしてくれていたのである。
ある日「今夜は弁慶だ」と、家長が託宣し、家族は「やったぁー」と盛り上がった。
夜道を出前してくれた鰻重をテーブルに置き、一家四人が向かい合った。
肝吸いつきである。
蓋を取ろうとする子供たちを制し、
「いいか。蓋は四人いっせいに取るのだ。全員で美しき光景を、同時に見ようではないか」と、家長が命じた。
四人共、中の鰻を想像して蓋に手をかけた。
あめ色の艶。
ふわりと立ち上がって顔を包む、おいしい湯気。
尻尾の先が、お重に少ししなだれかかった姿。
ふっくらと焼きあがった鰻に、箸を入れる瞬間。
「いいか開けるぞ。三、二、一。今だ!」。
その瞬間、停電となった。
軽井沢の夜は暗い。樹木が生い茂っているので、月明かりも、近隣の明かりも届かない。
漆黒の闇夜である。
胃袋をそそる香りに包まれながらも、鰻の姿は皆目見えない。
目も慣れない。
「すぐに復旧するから、まだ箸をつけるな」といったが、兆しはない。
一分が一時間にも感じる。
2分も経っただろうか、我慢の限界を感じ、断念した。
「食べよう」。
元気のない家長の号令で、一同、手探りで箸を取った。
ああ紛れもない鰻である。
見えないが鰻である。
今食べているのは腹だろうなあ。
山椒をかけたいが、袋がみつからない。
肝吸いをこぼさぬよう、慎重に机に手を這わせ、お椀に接近する。
見えないので、食べようと重箱に箸を突っ込んで、空振りすることもある。
むなしい。
「闇鰻」である。
鼻と舌はうまいと感知しているが、脳が同意しない。
不安が先立ち、味に気が回らない。
美味を誘拐されたわびしさだけが、胸を埋める。
どこまで食べたのか。いつ食べ終わるかもわからない。
闇の塊を、ただただ黙って、口に入れているのだけなのである。
唯一ボクらに出来ることといえば、中部電力を呪いながら、「まずい」という言葉を飲み込むことだけだった。
写真は弁慶ではありません