趙楊さんを忍ぶ1

趙楊さんがお亡くなりになって、もうすぐ三ヶ月となる。

訃報を聞いたとき、日本の国家的損失だと嘆き、無念の想いに駆られた。

店を閉められる数年間は、中国のトップクラスの厨士たちが勉強のために、何度も訪れていた。

「牧元さん、どうおいしい? これ食べたことないでしょ。古い古い料理ね。今は誰も作らない」そう言って、得意げな笑顔を浮かべた趙楊さんを思い出す。

その後の口癖は、「大変だから、もう二度と作りたくないね」だった。

中国特級厨士にも受け継がれていない料理が、日本で食べることができる。

そこで毎月のようにテーマを決めて会を催した。

毎回見たこともないような料理が並んだ。

「ウリ科の料理」。

「精進料理」。

「川魚料理」。

「きのこの料理」。

「皇帝が好んだ料理」。

「鄧小平の好物料理」。

「冬の野菜料理」。

「鍋料理」。

「豆腐料理」。

「四川の家庭料理」。

「発酵食材と発酵調味料の料理」。

「豆料理」。

毎回衝撃をうけた。

いずれもみたことも聞いたこともない料理で、二十数回やったが、一度として同じ料理が出たことがない。

しかも豆料理なら、料理の主役がどの皿も豆なのだが、飽きさせない。

味と色合いにバリエーションを持たせ、豆のさまざまな魅力を伝えてくれる。

一度「麻婆豆腐づくしを食べてみたい」と無茶振りをしたら、「ああいいよ。簡単だよ」と、事もなげに言って、瞬く間に6種類の麻婆豆腐を作ってくれたことがある。

「この人は、幾つレパートリーを持っているのだろう?」と、毎回思っていて、質問をしてみた。

「一回数えてみたことがあります。八千種類くらいでした」。

趙楊さんは、さらりと答えられた。

いったい世の中に、8000種類のレパートリーを持っている料理人が、何人いるのだろうか。

いや4000種類としても、いないかもしれない。

しかもすべてが、頭の中に入っているのである、

レシピを見ずとも、瞬く間にできるのである。

趙楊さんは中国人だが、日本の宝だった。

連綿と続いてきた中国食文化を受け継いで、日本にいたのである。

なぜこんな人が誕生したのか?

なぜこんな人が日本にいるのか?

その謎を知りたくて、僕は彼の半生をインタビューした。

以下次号。