今でこそ、ごぼうがフレンチやイタリアンに登場することは珍しくないが、当時は飛躍的な冒険であり、創作であり、衝撃であったのである。
山本氏の前説を読んで出かけた僕も、皿の前で陶然とし、天に遠い視線を投げた。
「うううっ」、と唸りながら、こみ上げる笑いが抑えきれない。野鴨の滋味が、ごぼうの土臭さや野ぜりの苦味や香気と呼応して、野生を強め、舌に力強く迫ってくる。
シェフは、現在銀座で「魚魚 大渕座」をやられている、大渕康文氏。
氏の郷里秋田に「だまっこ汁」という、野鴨ときりたんぽにごぼうと野ぜりを使った鍋があり、その相性からヒントを得たという。
だがヒントを得たといっても、日本で慣れ親しんだ食材を、フランス料理として結実させるのは、技と勇気と才能があってことで、皿の上でごぼうも野ぜりも、必然として光を放っているのであった。
「なあんだごぼうも使えるんだ。よし」。才気溢れるシェフたちは考えたに違いない。
土臭い温かみや消臭効果もある。また前号で上げたように、意外に汎用性もある。ただし安い食材としての印象があり、日本人なら味を熟知しているだけに、危険も伴う。
あえてごぼうを使う「意味」を持たなければならない。西洋料理にとって難しい食材なのだが、「アルピーノ」で結界を破ってのち、徐々に活躍の場を広げ始めるのだ。
まず登場したのがスープではなかろうか。渋谷の「パルメ」で初めて飲んだごぼうのスープは、優しさに満ち満ちていた。
柔らかいベージュ色をしたポタージュの表面は、ふわりと泡立てられている。一口流し込むと、土臭さがほんのり漂い、穏やかな甘味がゆるゆると広がった。そんなにあくせく生きてどうするの。もっと腰を落ち着け、じっくりいこうよ。そうスープに諭された。
中目黒の「コム・ダビチュード」では、ホウボウのフライにごぼうのスープが添えられていた。ぷりりと弾ける甘い魚のフライにごぼうの香りが加わって、痛快極まりない、楽しい皿だった。
表参道にあった「カムシャングリッペ」では、冷たいスープをいただいた。淡いベージュの海に、こげ茶と薄茶、二種類のごぼうが浮かんでいる。一方は素茹で、一方はバルサミコでキャラメリゼしたごぼうである。
冷たくともスープは温かい土臭さを漂わせ、素朴な茹でごぼうと色っぽいキャラメリゼごぼうが対比を成す。野暮と洗練、庶民とセレブが交わる、ユーモアとエスプリに富んだスープである。