マイ餃子史2 黎明編

食べ歩き ,

生まれて初めて餃子を食べたのは、いつだったのだろう。

ただ、小学校一~二年の頃、大阪茨木の自宅で母を手伝い、餃子を作ったことだけは覚えている。

餡を入れ過ぎたり、ヒダがうまく作れなかったりで、不格好な粘土細工のような餃子を、大量に製造した覚えがある。

不格好な餃子は、焼け具合がいつもと違い、妙に美味しかった。

時は、1961か62年。「上を向いて歩こう」か「可愛いベイビー」を口ずさみながら作っていたのだろうか(どちらも餃子を作るには快適なリズムとメロだなあ)。

赤木敬一郎鉄扉に激突して死亡し、堀江謙一が、ヨットで太平洋単独横断に成功した年である。

その頃に、旧満州からの引き揚げ者によって広がった餃子が定着し、カレーやラーメン同様、「日本食」として、家庭に浸透していった。

「挽肉だと味が出ない」と、母はいつも豚薄切り肉をたたいてミンチを作っていた。

台所から聞こえるトントンというリズミカルな音が、「さあ今日も餃子作るぞ」という気分を高揚させた。

 

そのことを、急に思い出させたのが、大森の「大連」である。

もう三十才をとうに過ぎていたが、二十数年前の光景が、鮮やかに蘇ってきた。

「大連」は、大連から渡ってきた一家が、言葉もわからぬ土地で始めた家庭料理屋である。

餃子を頼む。

焼き餃子、蒸し餃子、水餃子とあるが、まず頼むのは、蒸し餃子である。

すると厨房から、賑やかな中国語とともに、トントンという餡をたたく音が聞こえ始めてきた。

思わず嬉しくなって紹興酒を頼み、音を肴にして、餃子を待つ。

やがて餃子が運ばれる。

もうもうと立ち上る湯気の中で、艶やかに光る20個の餃子。

ほんのり透けた白い皮の中に、茶色の餡が見えている。

まずはなにもつけずに一口。

餡が透けて見える皮の薄さなのに、皮はむっちりとして、一瞬歯を押し返してくる。

皮がよく練られていて、根性がある。

皮が弾け、熱々のスープがほとばしる。

こぼれないよう、やけどしないよう、慎重に吸い、餡を噛む。

練り肉に加わった優しい大根の甘み。

微塵にして混ぜられた、牡蠣の滋味が豚肉の甘みと溶け合う。

口から消える前に箸は、もう一個をつかんでいる。

こうして二十この餃子は、瞬く間に無くなってしまう。

ご飯も酒もなにもいらない。餃子だけでいい。

そう思わせる慈愛が満ちた味わいだった。

「好吃不如餃子」“餃子ほどおいしいものはない”という言葉が中国にあるが、まさにその言葉を噛みしめる餃子である。

 

 

「大連」で食べたのは、蒸し餃子だが、長年、焼き餃子以外の餃子は、存在さえ知らなかった。

水餃子もスープ餃子も知らない。

餃子は、中国東北部で発達したとする説が濃厚である。

歴史は古く、1986年に唐代(七世紀~)の遺跡から餃子のミイラ見つかっている。

新疆ウイグル自治区の古墳から発見された世界最古の餃子は、八個が椀に盛られた状態で、現地は乾燥して雨がほとんど降らないため、埋葬されたからたちまち水分が吸収され、皮も餡も腐らずに残ったのだという。

さらに古くは、小麦粉の皮に具を包んで加熱した食べ物が、古代メソポタミア文明の遺跡から見つかっていることから、紀元前3000年頃には餃子の起源となる食べ物が食べられ、それがシルクロードを伝わって、インドや中国などで発展し、近隣諸国へ伝わったと考えられているのだそうである。

恐らくは、加熱された野菜や肉があり、小麦粉と水を練った餅のようなものがあり、それを交互に食べていたところ,一人の食いしん坊が、皮にして具材を包んで加熱したらどうだろうと思いついたのかもしれない。

手軽でおいしい一大発見である。

同時多発的に、各地で発見されたのかもしれない。

しかしその中において、焼売、餃子、ワンタンとの違いは、どこで生まれたのだろうか。

明治大学の張競教授によれば、かつて中国で饂飩と称されていた食べ物は、餃子の祖先であった可能性が強く、そこから分派していたのではないかとしている。

ともかく、餃子が生まれて千三百年後、旧満州から引き揚げた人々が、日本に持ち込み、流行させたのである。

外食で餃子を食べるようになった大学生時代、衝撃を受けた店が三軒ある。

以下次号。