「冷やし中華に添えてあるスイカ、あれは許せないん」と、あるバーテンダーに話をしたら、彼は即座に「異議なし」と、同意された。
作った方は、スイカの気持ちになったことがあるのか。
こんな所で使われなかったら、今頃半月形に切られてがぶりと食べられ、汁を飛び散らせていただろうにと、不憫になる。
冷やし中華の味とスイカの風味が合ってないではないか。
まだ冷麺や冷や麦のほうが許せるが、それでもスイカを添えとけば、季節感が出るだろうという魂胆を感じてしまう。
納得できないのに、もったいないので食べてしまう時のわびしさといったらない。
てな具合に大いに盛り上がり、「全国冷やし中華スイカ排除運動」を、二人で立ち上げることにした。
まず手始めとして、そんな冷やし中華に出会ったら、最後にスイカだけを皿の中央に残す、無言の抗議行動をとることにした。
さらに運動拡大化のため、「許せないスイカのあり方」についても協議をした。
「海辺のスイカ割り」許さないぞ。
飛び散ったスイカがもったいないぞ。
砂浜で熱せられたスイカはまずいぞ。
黄色い果肉のスイカや、果皮が黄色いのも許さないぞ。
保守といわれようが、緑と赤を断固として支持するぞ。
西瓜という漢字は許さないぞ。
いくらエジプト、中国、日本と渡来して名づけられたという背景があっても、イメージがまったくわかないぞ。
水夏とか水果とか、みずみずしさを喚起させる当て字にしたいぞ。
などと、勝手にいきどおってみたのだが、中でも最も許せない問題としたのは、カットされて売られているスイカである。
なぜならスイカの味覚は、丸ごとのスイカを買う時点より始まると考えるからである。
「大きすぎて冷蔵庫に入らない」という消費者のわがままな理由で、小さく品種改良され、切り別けて売られるようになっのは、20年程前からだそうだが、それ以前のスイカ事情には味わいがあった。
スーパーの袋にすっぽり隠れてしまう現代と違い、スイカをぶら下げた人を町で見かけると、「ああ夏が来た」と、胸ときめかせ、母にねだる。
八百屋では、「奥さん、今日のスイカは甘いよ。ほらこれなんかどう、いい音でしょ」と、おじさんがボンボンと手で叩いて渡してくれた。
わが家の場合、買ってきたスイカは水を張った風呂で冷やした。
早く食べたいばかりに、何度も風呂場に冷え具合を見に行く。
しかしいざ切ると、ふかふかだったり、甘くなかったりして、「騙された、八百屋のおじさんの嘘つき」と、口をとがらせることが多く、それゆえに、張りのある真っ赤な果肉が現れたときは、「やったぁ」と、一家で歓声を上げた。
こうして僕らは、スイカと共に人生の機微を覚えていったのである。
なんてね。