まずさとは、味わいだけでないことを知ったのは、十五年前である。
牧元家は鰻が好きで、たまに鰻を食べる日は、ハレの日である。
そのためにスーパーで買ってごまかしたりせずに、鰻屋に出向く。
それは軽井沢での出来事だった。
その頃、南原の入り口に、上野の「弁慶」が支店を出して、たいそう賑わっていた。
便利なのは、別荘まで出前もしてくれたことだ。
ある日「今夜は弁慶だ」。
家長が託宣し、家族は「わーい」と盛り上がった。
夜道を出前してくれた鰻重をテーブルに置き、一家四人が向かい合った。肝吸いつきである。
蓋を取ろうとする子供たちを制し、
「いいか。蓋は四人いっせいに取るのだ。全員で美しき光景を、同時に見よう」。と家長が命じた。
四人共、中の鰻を想像して蓋に手をかけた。
あめ色の艶。ふわりと立ち上がって顔を包む、おいしい湯気。尻尾がお重に少ししなだれかかった姿。ふっくらと焼きあがった鰻に箸を入れる瞬間。
「いいか開けるぞ。三、二、一。今だ!」。
その瞬間、停電となった。
軽井沢の夜は暗い。
樹木が生い茂っているので、月明かりも、近隣の明かりも届かない。
漆黒の闇夜である。
胃袋をそそる香りに包まれながら、鰻の姿は皆目見えない。目が慣れることもない。
「すぐに復旧するから、まだ箸をつけるな」。
といったが、兆しはない。
一分が一時間にも感じる。
2分も立ったろうか、我慢の限界を感じ、断念した。
「食べよう」。
元気のない家長の号令で、一同、手探りで箸を取った。
ああ紛れもない鰻だ。
見えないが鰻だ。
今食べているところは、腹だろうなあ。
山椒をかけたいが、袋がみつからない。
肝吸いをこぼさぬよう、慎重に机の上で手を這わせ、お椀に接近する。
見えないので、食べようと重に箸を突っ込んで、空振りすることもある。
むなしい。
闇鰻である。
鼻と舌はうまいと感知しているが、脳が同意しない。
不安が先立ち、味に気が回らない。
美味を誘拐されたわびしさだけが、胸を埋める。
どこまで食べたか、いつ食べ終わるかもわからない。
闇の塊を、ただただ黙って口に入れているのだけなのだ。
僕らは、中部電力を呪いながら、「まずい」という言葉を飲み込んだ。