魚を知らなかった。
この映画を見るまで、築地を流通したおびただしい数の魚を食べてきた。
しかしその魚の真意を、魚に込められた人々の衆知を知らなかった。
商いの語源は未詳だが、一説によれば「贖いを行う」という意味でもあるという。
金品を持って贖う。神に許しを請うためには、商いの行為自体が透き通って、美しくなければならない。
日本人の商いに対する美醜は、ここを原点にしているのではなかろうか。
古来、日本においては、事業の社会的意義が重視されて、売り手よし、買い手よし、世間よしという近江商人の「三方よし」が美徳とされてきた。
築地にも、その美徳が、脈々と息づいている。
映画では、卸や中卸など、何人もの築地で働く男たちが登場する。
「世界中の一番の物が、ここに集まってくる」。
「常に最高の魚を仕入れ、売ればいいということではない。お客さんの望む品質、量、価格に叶った魚を、どう選び出すかということが仕事です」。
「評価能力、分化能力を備えていなければならない」。
「子供たちが食べるっていうんじゃ、いい魚を安く選んであげたいよね」。
「注文入ってんのに、時化で魚がない。それでもなんとかしなきゃね」。
「ただただ魚の質を見るくらいだったらみんなそこそこ見れる。でもそこから先の世界がある」
口々に男たちは、商売への思いを語る。
プロの矜持を背負いながら、使命感をあらわにする。
おそらく我々では想像もできぬほどの苦労を抱えているのだろう。最近の漁獲変動への対応に、日々頭を悩ましていることだろう。
しかし、皆生き生きとして楽しそうである。
それは、日本人の胃袋を賄う食材の流通を担保する、経済装置としての「築地」で働く誇りもあろう。
しかしそれ以上に、魚食文化の伝統を支える、文化装置としての「築地」を動かしているという、自負や責任が、喜びとして噴出しているように思えてならない。
築地は、伝統食文化を未来へとつなぐ、戦いの場でもあるのだ。
その戦場で普遍のヒューマニズムを貫く、商い精神が潔い。
相手の立場に立って物を考えようとする心意気が、清々しい。
だから築地を通った魚は、我々の血脈となって、心を揺さぶる。
オリンピックを見ているときに似た、ナショナリズムや全体主義とは違う、同じ人間としての可能性に、震える。築地で働く方々の知恵が、真の衆知となって生かされる日本に住むことを誇りに思う。
ふと、北米先住民長老の言葉が浮かんだ。
「人間が最後の魚を食べるとき、気づくだろう。お金は食べられないことを」。
10/1東劇で先行,10/15全国公開 飲食に関わる人、飲食に興味がある人だけでなく、間違いなく、あらゆるビジネスに携わる人のためにある映画である。
映画「TSUKIJI WONDERLAND(築地ワンダーランド)」10月1日(土)築地<東劇>先行公開 / 10月15日(土)全国ロードショー
tsukiji-wonderland.jp