前号より
それがどうして料理名になったのか。
一八九四年、パリ「コメディ・フランセーズ劇場」のこけら落としに上演された、ヴィクトリアン・サルドゥー作『テルミドール』劇にちなんで、近くのレストラン「メール」が作ったということらしい。
その後、バルサック、デュマなど文人が常連であったレストラン、「カフェ・ド・パリ」の名物として有名になっていたそうである。
十九世紀の料理なのであった。
フランスの美食黄金時代である。
調理法が多様化し、一皿ずつ出すロシア式サービスがもたらされ、料理評論が始まり、豪華ホテルが出来、カレーム、ニニョン、エスコフィエ、デュボアなど、現代フランス料理の礎を築く、名だたる料理人を輩出した時代の産物なのであった。
以下次号
「カフェ・ド・パリ」のレシピは、以下である。
二つ割りにして掃除したオマールを、塩と油をふりかけ、十五~二十分間ローストして、大きな賽の目に切る。
次にソース。白ワイン、魚のフュメ、肉汁に、セルフィユ、エストラゴン、エシャロットの微塵を加え、煮詰め、濃いソース・ペシャメル(ホワイトソース)とイギリス風マスタードを加える。
ソースを煮立て、ソースに対して半分量の新鮮なバターを加える。
ソースを殻底に敷き、海老の身を置き、ソースをかけ、パルミジャーノと溶かしバターをかけ、手早くグラチネをする。
ふうっ。大変だ。
これが「カフェ・ド・パリ」のシェフで、一躍名物にした、トニ・ジローのレシピだという。
その後簡単にホワイトソースと粉チーズをかけて、グラタンにした簡易版から、最初にローストせず、クールブイヨンで茹でてソテーし、酒類でフランベする派閥や、ソース・オランデーズ(酢、卵黄、バターなどによるソース)、ソース・モルネー(ペシャメルに魚のダシなど)を加えるなど、多様な手法があるのだという。
故レイモン・オリヴィエ(二十世紀を代表する、フランス料理界の碩学)のレシピは、茹でて、シェリーで軽く煮る。白ワインと魚のダシを煮詰めてペシャメルと合わせ、カイエンヌペッパーを利かせる。
方やポール・ボキューズのそれは、最初にロースト派で、ソースは、ペシャメルに生クリームで溶いた卵黄とマスタードを加える。
いずれも最後は、チーズをかけてグラタンとする。
日本で伊勢海老といえば、志摩観光ホテルの前総料理長高橋忠之氏を、欠かすことは出来ない。
高橋氏のレシピでは、クールブイヨンで茹でた後、マッシュルームとバターでソテし、コニャックと白ワインでフランベする。
この時の汁の半分を別鍋に濾し入れ、海老を入れ、煮詰めつたクリームとエダムチーズを混ぜて殻に詰める。
残りの汁に煮詰めたクリーム、トリュフ、エダム、バター、ソース・オランデーズを加え殻の上にかけ、グリュエールチーズを振りかけて、オーブンで焼く。
基本は、百年たっても変わらないが、発明した「メール」の料理長やトニ・ジローも、東の異国でこのように継承され、変化していくとは、微塵にも思わなかったに違いない。
いやそれよりも、日本人における結婚披露宴の定番料理になろうとは、想像すら出来なかったであろう。
こうして、レシピを調べていて気になったことがある。記憶では確か、大きい賽の目等にはなってなかった。
食べるとソースの味以外しないものが多かった。
定番となったのは、祝事には江戸時代から伊勢海老が使われていたこと。グラタンがおなじみであったこと。大量の下準備が容易に出来たことといった理由があげられよう。
ただ明確なことは、自からの意思で、自らの金で食べたことはないということだ。
これは人生の汚点である。