いちご

日記 , 寄稿記事 ,

小学校四年生の春、僕はかねてよりの企みをついに実行に移すことにした。
「苺を洗ってくるから」と、手伝いをするふりをして、台所で苺をかすめ獲り、軽く洗って、そのまま食べてしまう計画である。
わが家では、ヘタをとった苺を小鉢に入れ、牛乳をそそいで砂糖をかけ、つぶして食べるというやり方を、先祖代々日々疑う事なく、粛々と行ってきた。
「よくよくつぶして食べなさいね」。
必ず母からいわれたものだ。
なにしろ母は、
「苺の粒粒(表面にある変形しためしべ)は、お腹によくないから出しなさい」と、親からいわれて育った人間である。口から苺の粒粒だけを出すという、高度なテクニックを磨き続けてきた人間である。
苺を丸ごと食べていいのは、誕生日に食べる生クリームがついたショートケーキの苺だけで、そのままなにもつけずに食べるなんぞは、とてつもない蛮行にほかならない。
だからわが家に来た苺は、完膚なきまでにつぶされた。苺が出されると皆心して、固まりが少しでも残らぬように黙々と作業にいそしんだのである。
しかし僕はある日、固まりを少し残して食感の違いを楽しむのはいいかもしれない、と思いついたのですね。そしてつぶすふりをしながら、少しだけ残した固まりを、ミルクの海の中に隠蔽したのである。
なにごとも隠れてやることは、おいしさが倍増する。けっこういけるじゃないか。そう思ったら止まらず、次は丸ごと齧ってやる、と企んだのである。
で、先の台所である。ヘタをもってがぶりとやってやった。
「酸っぱいっ」。酸味が舌の両端を走って、頬の内側を刺す。酸味が過ぎ去ったあとに、微かな甘い香りが漂った。
苦味がそうであるように、酸味も大人の味覚である。こりゃ酸っぱいやぁと感じながら、なにか乗り越えたような気がして、わくわくした。たまらず、あと一つあと一つと食べて瞬く間に半減し、怒られた。

この話を二十歳の人にしたら
「えーっつぶして食べてたんですかぁ」と、驚かれた。
トマトに砂糖をかけていたという話をして、奇異な目で見られた時以来の反応である。 考えてみたら、十七才になる娘は、生まれてこのかた、牧元家伝来の苺食法には触れていない。いつも丸かじりである。
ではかじり派は、いつ頃からつぶし派を凌駕したのだろう。そこで三十人近くの食いしん坊に、小さいころの食べ方を聞いてみた。 結論。すいません、まったくもってわかりませんでした。
コンデンスミルクをかける。牛乳だけをかける。砂糖だけをふりかける。液体と砂糖の合わせ技。その上つぶす、つぶさない。時には丸かじり。完全丸かじり。計十二組の回答が、年齢にかかわらずなされたのである。
しかし四十代で完全丸かじり派は皆無で、三十代では二人、二十代では半数以上が、つぶしたり丸かじりしたリと、二つの食べ方で楽しんでいるようである。
中に中年のイギリス人が一人いて、彼は質問に対して、「なにを聞くんだ」という怪訝な顔をして、当然生で丸かじりさと答えた。 獅子文六は「食味歳時記」の中で、「〜味は、日本のそれと大差ないが、ただ、イチゴを食べるときに、スプーンでつぶす人を、見たことがない。誰も、青いヘタをつまんで、少量の砂糖をつけて、口へ持っていく。女性の場合、ことに、似つかわしい。私はフランス人が、ああいう食べ方をして、自然や季節を愉しんでいるのではないかと、推測する」と、フランスの苺食の模様を書いている。
著は昭和四十三年だから、僕が台所で恐る恐る丸かじりしていたころだ。
酸っぱい記憶がよみがえる。どうやらかの地では苺はつぶして食べないようである。味は変わらなかったというから、フランス人は酸味に強いのだろうか。いや、甘酸っぱさこそ果物の魅力だということを、よく知っているのではないだろうか。
日本人には、古来から柿や桃など甘酸っぱい果物が少なかったDNAが組み込まれているせいか、以前よりどの果物も甘く甘く改良(改悪?)されてしまった。
甘くなったのはいいが酸味が失われてしまったように思う。苺ほど科学的に作られている果物はないそうだが、そのせいか味が平均的で、味に奥行がない苺が多い。
初生かじりをした’65年ころは、酸っぱい奴も甘酸っぱい奴もいたのに、なんか面白味に欠ける世の中になっちまったなあ、と愚痴っていたら、人より浅草にある「みどりショップ」という店を奨められた。
扱うのは、栃木の内藤さんという方が作る完熟の「女峰」。入荷したと電話があれば取りに行く。
大ぶりな苺を噛むと、追熟した最近の苺のようにシャキッとした歯触りではない。ざっくりと歯がめり込んでいき、豊かな汁がゆっくりとあふれ出すのだ。気品のある酸味と高い糖度が自然に調和していて、食べ終えてもしばらく、胸の内にさわやかな酸味と香りが残っている。
生命の息吹きを感じる苺だ。息吹きのみずみずしさが喉から胸の辺りに居座って、なんとも清々しくなる。食べることによって、体が浄化されるような、感謝の苺である。
こういう苺を食べちまうと、もう生食丸かじり以外はしたくなくなる。せめてそのままジュースにするくらいだ。しかしただ一つ例外がある。苺アンケートでもトップの人気であったショートケーキである。

誕生日にだけ必ず食べたショートケーキ。なぜショートなのかと母親に聞くと、「小さいのにおいしいからよ」といわれた。
「そんな小さくないのになぁ」と、疑問を持ったが、おいしいことは大いに納得し、深く考えることもなかった。
ショートケーキのショートは、サクサクという意味で、本来はイギリスのショートブレットと呼ばれるサブレ生地に、クリームとフルーツを合わせた菓子だそうだ。この菓子がアメリカを経由して日本に入ってきた。
アメリカ東海岸には、往時のショートケーキを出す店や家庭がまだ残っているそうである。日本の歴史は大正元年、不二家の創業者がアメリカで出会い、その製法を日本で始めたというのが、ショートケーキ伝来の定説となっている。
僕のお気に入りは、まず曙橋の「ラ・ウィ・ドゥース」。二層に挟んだ厚切り苺に新鮮なシズル感があって、対比的な生クリームと味わいの重奏を呼んでいる。
次が大泉学園の「プラネッツ」で、ローマジパンを使ったスポンジが、舌の上に乗せた瞬間消えてしまうほど軽く、クリームも軽めで、それが苺と見事な出会いを見せている。 第三が門前仲町の「サロン・ド・ペリニョン」で、小さい身の丈に苺四個を上下に挟むしっとりとしたスポンジに目が潤む。クリームも濃厚で、隠し味で塗られた苺シロップも心にくい。
第四が新宿「高野」で、ショートケーキ好きには夢のような、高さ二十センチはある「ダブルショートケーキ」。果物屋ならではの質の高い苺も光っている。
第五が鶯谷の「イナムラ・ショウゾウ」。挟んだ苺の粒が大きく、それをしっかりとしたスポンジで挟み、乳脂肪分の高いクリームで合わせた、気品ある味である。
第六がご存知、淡路町「近江屋洋菓子店」。軽いながらもしっとりとしたスポンジ、ほどよい重さと甘さのクリーム、酸味のある苺のハーモニーによる、「ああっ」とうずく、懐かしくも誠実な味わいである。
以上が東京ショートケーキの六花選。いま僕の夢は、「近江屋」で、アイベリーを使った一台一万円!なりのショートケーキを頼み、出来上がり時間を指定し、時間に合わせて来店して、スポンジに水分が染みない出来立てを、その場で食べることである。
どうです。誰か乗りませんか。