飲む“時”を選ぶシャンパン

食べ歩き ,

飲む“時”を選ぶシャンパンである。
それは、今しかなかったろう。
彼が、60歳という日を迎えた、今しかなかったろう。
店主な粋な計らいで、それは抜栓された。
1989年から眠ってきたシャンパンが注がれていく。
澄んだクリームイエローの液体が、注がれていく。
それは橙黄色や梔子色、ミカド色に輝き、空気と触れた喜びに震えていた。
そしてその喜びの声は、繊細な泡となり、グラスの中を、ゆっくりゆっくりと上っていく。
黄色いリンゴや桃を感じさせる香りに目を細め、人生に想いを馳せながら、静かに飲む。
太く丸い酸味が優雅に流れ、微かな甘みがきらめく。
飲み干したい。
だが飲み干したくない。
いつまでも口腔内でも楽しみたい。
でも液体はやがて喉に落ち、蜂蜜やトーストの香りが、鼻に抜けていく。
優美な余韻に目を細めながら、二口三口と飲む。
やがて2杯目が注がれた。
マンゴーのような豊かな太陽を受けた果物の香りもある。
ブリオッシュ焼き上がった時間もある。
また一口、そろそろと飲む。
ああなんとエレガントなのだろう。
液体は地平線の彼方まで滑らかなのに、密度高いミネラル感が広がり、より豊穣な甘みが、舌の真ん中を通り過ぎていく。
そしてその味わいは、二口、三口と膨らみながら、次第に優しくなり、官能という灯りを灯すのだった。
ワインを知る方ならご存知のように、この古き良き哲学を踏襲したシャンパンはもう飲めない。
ガブリエルマルクスなどが提唱しているように、コロナ禍において、行きすぎた資本主義から心の世界に移行すなら、再びこのワインが生まれることを夢見て。
名古屋「オーロックス」にて