<勅使河原先生事件>
今から30年前、NYからの帰国の便だった。
僕の席は、ギャレーの近くの通路側である。
CA(その頃はまだスチュワーデスと呼んでいました)が忙しそうにギャレーに出入りして仕事をしている。
そのうちなにか違和感を感じた。
何だろうと思って、冷静に観察していると、一人のCAが僕のことをチラ見しているのである。
最初は気のせいかと思っていたが、明らかに、意図的能動的積極果敢チラ見である。
これは来たか。
ついに春が来たか。
モテ期が来たか。
色めきだった。
20代後半で長身丸顔の温和そうな方である。
これは食事サービスの時に、なにか兆候があるぞと期待した。
だが残念ながら彼女は、別のエリア担当で僕の席には回ってこなかった。
サービスが終わると、CAさんたちはまたギャレーに出入りする。
また彼女はチラ見する。
「やはりこれは」と、一人コーフンする。
「一目惚れされたな」と、一人悦にいる。
フライトして五時間くらい経った頃だろうか、いきなり彼女が動いた。
意を決した顔で僕の席に近づいてくるではないか。
「恋の告白きた〜」。
そして、なんと彼女は、片膝を立ててひざまずき、僕の膝に手を置いて見つめるではないか。
そして言った。
「て、て、勅使河原先生ですよね?」
彼女の瞳は少し濡れて、まっすぐ僕を見つめている。
その時間は10分だろうか。いや4秒くらいだったのに違いない
「・・・」。
僕は、ただただ彼女を見つめ返していた。
恋の告白ではない、意味不明の問いかけに反応できない。
情けないことに、なにも言えず、目を丸くしてたじろぐことしかできなかった。
彼女はその様子で気付いたらしく、
「す、すいません」と、顔を赤らめて、逃げるように立ち去った。
以来チラ見は一切なくなった。
勅使河原先生とは誰なのか?
恩師なのか、命の恩人なのか。
しかし思うに、自分の反応が不甲斐ない。
「はい。勅使河原ですが、どなたでしたか?」と言うべきだったか。あるいは
「残念ながら、私は勅使河原先生ではありません。でもよく言われるんです。その方のことを今度ゆっくりお聞かせ願えませんか」。
と、なぜ返せなかったのか。
以来、謎は、30年間残されたままである。