牛肉の話

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いつから日本人は、こんなにステーキが好きになったのだろう?

今東京は、空前の牛肉ブームである。去年、東京に開店したステーキ店は、過去最高数であり、今年に入ってもその勢いは止まらない。

アメリカやパリから、続々とステーキ店が進出し、街では、「熟成肉」と「赤身肉」の文字が踊っている。

このブームと同時に、牛肉価格が高騰している。

黒毛和牛に限らず、短角や赤牛、ホルスタインの価格も上がり、輸入牛の価格も上がってきている。一方で子牛の買い取り価格も上がり、経営ができないと、廃業する畜産農家も多いと聞く。

このまま価格上昇が続くと、間違いなく数年後には、黒毛和牛のステーキを食べられるのは、限られた金持ちだけになるだろう。

そんな流れの中で、「牛肉を食べる意味とは?」「牛肉の美味しさとは何か?」と、問うてくる牛に出会った。

滋賀県木下牧場の「近江プレミアム牛」と、北海道駒谷牧場の完全放牧野生牛「ジビーフ」である。

「近江プレミアム牛」は、京都「le14e」茂野眞シェフに焼いてもらった。

ハラミのステーキは、脂の醍醐味と肉の香りを口の中で爆発させながら、すうっと消えていく。だからいくらでも食べられる。

イチボは、歯が肉に吸い込まれるように入っていき、甘い汁がじっとりとこぼれ出る。なんとも品がいい、きめ細かい肉質である。

健やかに育った牛の清らかな滋味が、噛むほどに溢れ出て、黙ってしまう。

肉に誠実があり、それを茂野さんが素直に引き出す。だから食べて、心が満たされる。食べる喜びに溢れる牛肉を噛みしめながら、ただただ牛に感謝する。

茂野シェフは言う。

「僕にとってはオンリーワンの牛です。糖度が高く、イチボは酸の伸びがある。でも他の牛に比べて、焼きあがるピークが極めて狭い。だから緊張します」と。

木下牧場の肉は黒毛和牛でありながら、赤身肉が多い。

実は黒毛和牛で霜降り肉を作るのは、比較的簡単であり、逆に赤身肉の多い牛を作るのは、極めて困難であるという。

その困難に、木下牧場は成功したのである。

木下さんはまず、自然に健康な牛を育てることを理想にした。

既存のやり方では、栄養価の高い穀物をたっぷり与えて増体し、サシを入れて少しでも良い格付けに仕上がるように育てる。

これは牛が愛玩動物ではなく経済動物であるという性質上、やむを得ないことでもある。

しかし元々草食動物である牛に、サシを入れる育て方は、時としてストレスを誘発し、体調に異変をきたすこともあるという。

自然に健康な牛を育てる。そのために木下さんは、国産飼料での飼育をし、和牛では珍しい放牧牛舎も併設して、伸び伸びとした環境で牛を育てた。

ストレスがかからない牛たちの毛並はサラブレッドのように艶々と輝き、自由に運動していることもあって 肉は赤身が強い。

近江牛の大半は、全国の仔牛市場で血統の良い子牛を買って近江で育てるが、木下牧場では 繁殖から一気通貫して行っている。

毎日のように仔牛が産まれ、放牧場ではお母さん牛とともに、お日様を浴びながら元気に育っていく。

牧畜とは何か。

牛を飼い、殺し、食べる意味は何か。牛の命を絶って我々が健やかに生かされていく。

その答えがこの牧場にはある。

だからこそ食べると自然に感謝の気持ちが湧き上がる。

そんな牛なのである。

もう一つは、北海道は襟裳岬に近い、様似町にある駒谷牧場にいた。

「ジビーフ」。完全放牧牛である。

生の肉は赤の色が深く、厳しい気候から身を守る脂は、肉に分厚くかぶさり、草だけを食べてきた証に、黄色がかっている。

「ずずん」。

ステーキを切って一噛みした瞬間に、地鳴りがした。

心臓の鳴動が味の中にあって、体を揺さぶる。

そしてどどうっと肉汁が流れ出す。しかしその肉汁は、我々が知っているものではない。

脂のだらしない甘みがなく、鉄分の味だけでもない、純真な命の滴りに溢れていた。

食べ進むごとに、牛の精気が我々の体に送り込まれて、上気する。

命を食べるとはこういうことか。これほどまでに、壮絶なのかと思い知る。

よく僕は、「野性味がある」という表現をしていたが、そのことが恥ずかしくなった。

「野性味」なんて、軟弱な都会人の、薄っぺらな想像でしかないことを、この肉は伝える。

それほどにジビーフの味わいは、食の本質を揺さぶるのである。

肉を食べる意味とはなんなのかと、人間に答えを突きつけるのである。

完全放牧野生牛は、産まれてから出荷するまで、牛舎で飼うことはなく、昼夜を通して林間放牧され、母牛(繁殖牛)の群れの中に、父牛(種牛)を一緒に飼い、自然に交配させる方法をとっている。

一般的な人工授精とは違う、自然受精、自然分娩、好きな時に好きなだけ母乳を飲んで育つ自然哺育を行い、飼料は、自然に生えている四季折々の野草(笹やヨモギ等)や山菜、牧草等の草のみで育つ。
輸入飼料を大量に与える現代の穀物主体の肥育とは、真逆である。

牛たちは、好きな草を求めて、ディズニーランド4個分の牧草地を移動する。

その44頭の牛の皮膚は、命の気高さで輝いていた。

なにしろ誰もやったことがない飼育である。

牧場主の西川奈緒子さんには、数多くの悩みがおありだろう。

だが西川さんは明るい。その快活なお人柄と牛に対する至上の愛を、牛は受け容れているに違いない。

それこそが、ジビーフの味わいの深さを生み出しているのだと思った。

この牛肉ブームの中だからこそ、今一度牛肉を食べる意味を考えたい。

健やかな肉とは何かを考えたい。もちろん資本主義社会の中で、牛肉の味とは好みの問題でもある。

しかし一度嗜好を離れて、我々の子供たちに良き日本を残そうと考えた時に、僕が真っ先に考えるのは、この二つの牧場のことなのである。