「毎日あんな長い文書を、よく投稿できますね」
「原稿料が派生しないSNSに、あんな熱の入った文章を書くことはない」
と、よく言われる。
だが理由が三つある。
一つはピアノの練習である。
だがマンネリは否めない。
うまく書ける時もあれは、書けない時もある。
よくエロい文章だとか、官能小説だと言われるが、自分としてはそこから脱却して、スカッとした、垢抜けた色気を漂わせたいと思っている。
だが自身がまだ野暮天なので、うまくいかない。
第二にジャーナリストとして、成育したいからである。
山口瞳は説いている。
「ジャーナリズムとは、プロの隠れたファインプレーをわかりやすく伝えることである」と。
それを心がけている。
料理人から見れば、時に的外れな分析や解説をしていることもあるだろう。
だがそれを恐れず、書いていきたい。
小林秀雄は説いている。
「優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これに対しては学問上の言語も、実生活上の言葉も為すところを知らず、僕らは止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑え難く、しかも、口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。
沈黙を創り出すには大手腕を要し、沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする」。
この芸術作品を料理に変えて考える。
座右の銘である。
第三に、よりおいしいものと出会いたいからである。
感動した料理は、なるべく早く書く。
どこからの原稿依頼など待っていたら、感動は風化してしまう。
忖度したり、過分な表現は避け、なにが心の機に触れたのかを、心赴くままに書く。
料理人へのラブレターともえいよう。
文章を読んだ料理人が、より発奮して、良き料理を食べさせてくれることを期待して書く。
僕にとって、よき料理と出会うことは、機の発動に他ならないからである。
これも旅の効用について書いた、吉田松陰の言葉を大切にしている。
「心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触(しょく)に従ひて発し、感に遇(あ)ひて動く。発動の機は周遊の益なり。
心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがある。そのきっかけは何かに触発されて生まれ、感動することによって動き始める。旅はそのきっかけを与えてくれる」。
旅を料理に置き換えて考えてみるのである。