初台「ツバイヘルツェン」

拝啓 松永様

食べ歩き ,

拝啓 松永様

松永様、いやマスターが天国に召されてから、もう18年経つのですね。

マスターが眼光鋭く厨房内に立たれて、客を叱っていたことは、今でも鮮明に覚えております。

そしてオムライスや、コロッケ、ハンバーグなど、どこにでもある料理ながら、どこにもない料理は、イノベーティブだとか、料理が進化発展し、新しい料理が生まれてくる時代になっても、いまだ孤高であります。

初めて訪れたのは、今から40年前、僕が27歳の時でした。

恐る恐る扉を開けると、マスターは一瞥し、「いらっしゃい」と、不機嫌そうな顔のまま声をかけてきましたね。

客は僕一人。

唾をゆっくり飲み込み、「ビールを下さい」と、どうにか声を絞り出したことを覚えています。

だか何をどう頼んでいいかもわからない。

手書きの黒板メニューを見てソーセージとシチューを頼むと、返事もせずに、ソーセージを取り出し、茹でたかと思うと、フライパンの上にチップを敷き、網を乗せてソーセージを置き、燻製し始めました。

その光景に目を見張り、待つこと二十分。

小さき店内に漂う香りが体を包み、プリッと皮が弾けた頃あいに、ソーセージと自分は一体化したのでした。

頭が混乱し、「おいしい」という言葉さえ飲み込んだ。

そんな姿を、マスターは、片目で盗み見ていましたね。

シチューが出されて食べると、また言葉を失いました。

溶け込んださまざまな滋味が完全なる球体をなし、転がるように舌を過ぎていく。

なんと気品ある奥深さなのだろう。

笑いが止まらなくなり、顔が緩んで仕方がない。

そんな姿を見ていたマスターは、

「どうだ、うめえだろう! そんじょそこらのシチューとは、わけがちがうだろ!」

突然マスターが、声をかけてきて、いたずらっ子の笑顔が浮かべましたね

これが昔の味。

マスターが六十年代のヨーロッパ各地の一流ホテルで身につけた、真実の味でした。

昔気質のマスターは、頑固で気が短く、酒飲みで、人見知りで、生一本で、人情家でした。

時間に遅れるとひどく怒られ、連れて行った女性に「ブス連れてきやがって」と言われて冷や汗かいたこともありました。

初めての客には手厳しく、食べ方がなってないと「おめえは仕事できないだろ」と怒鳴られた。

でも美人には優しかった(笑)。

料理の数々は、ご主人の故松永氏が、1960年代の欧州で学んだ味、もうヨーロッパでも味わえない、古き良き時代が作り上げた真実の味でした。

先日10年ぶりに伺いました。

トウモロコシ畑に立っているかのような、オランダのマリオットホテル直伝のコーンコロッケ、スイス風干し牛肉、パリのオテルリッツで働いているときに覚えたという、本当のタルタル、大量の手羽先から作るコンソメ、太陽熱で発酵させたピザ、ケチャップから手作りしたオムライス、シェリー酒で仕上げたナスのコンカッセを添えたイトヨリのピカタ、ジェノバ風手打ちパスタなど、奥様が寸分変わらぬ味を再現されて、心が高らかに響きました。

一緒に連れて行った男性から、翌日にメッセージをいただきました。

「今までいろんな店に連れて行ってもらいましたが、一番感動いたしました。ありがとうございます」。

おそらく先日同席された方は、皆その思いだったでしょう。

「二つを一つに」という意味のドイツ語の店名は、同席した方々が一つの気持ちに、あるいは料理人と客の心が一つになるという意味が込められています。

まさに先日は、その瞬間がありました。

かえがえのない、奇跡の美しさに満ちていました。

またうかがいますね。

天国から見守る、マスターの屈託のない笑顔に会いに。

敬具