夢見る散歩道〜大阪北新地篇  もてなし心が息づく新地の巻

食べ歩き ,

甘美な香りと下手な匂い。

北新地に踏み入ると、対照的な香りが胸の辺りで交差する。 

前者はお姉様たちがふりまく香りであり、後者は、餃子が焼き上がる匂いである。

「ここで飲めるようになったら、一流の大人やでぇ。よう覚えときや」。新地に初めて連れてきてくれた先輩の言葉を思い出す。

なるほど一帯は、仕立てのいい背広と派手なネクタイ、鰐皮と黒塗車の洪水である。

おお、ついにクラブデビューかぁと鼻を膨らませたが、着いた店は、雑居ビルの階段を上った、男店員だけのカウンターではないか。 

先輩は慣れた口調で、

「まず六十個焼いてんか。ビール二本と胡瓜も頼むわ」。というと、

「さあ、飲むでぇ」と、運ばれてきたビールをドボトボ注いだ。

「なにが六十個だ」と、落胆、憤慨しながらも、さっきから胃袋をくすぐっている匂いが、気になってしかたない。

「はい三十ずつ」。登場したのは初めて見る小さき餃子だった。

一口サイズの餃子が、仲良く三十個連なっている。

「カリッ、パリッ」。口に放り込むと軽快な音が響き、頬がほころんだ。野菜と肉のバランスがよく、忍ばせた辛みと薄皮の食感が後をひいて、瞬く間に皿が空になった。

勢いは止まらず、百五十個とビール八本をたいらげ、ほろ酔いで店を出た。

以来新地は、しばらく焼餃子の町であった。 

初めていった「点天」に飽き足らず、兄ちゃん、「天平」、「点祥」、「なか川」、「11点」、「包屯」と、餃子屋巡りをして、足しげく通い、「新地は天平に限るね」。とわけ知り顔で話していた。

しかし新地は焼餃子の町ではない。接待の町である。

元禄十年に、全日空ホテル辺りに米市が設けられた頃より、各藩の役人や米商人の遊所として発展してきた町なのだという。

昭和十二年には、芸妓が六百十人もいて、大いににぎわっていたそうである。

昭和三十年代半ば、新地はお茶屋町から高級クラブ街へと変身していく。

四十年半ばには、現在の半分の店数で客は倍、家賃人件費は半額ながら、客単価は現在と同じという、オイシイ栄耀栄華を極めていたという。

ぼくが栄耀栄華の一旦を齧らさせていただいのは、バブル後であった。「ピアジェ」というクラブで、目がくらみ、鼓動が高まり、下半身がうずくほどの女性が次々と現れて、天井まで舞い上がった記憶がある。

クラブだけではない。

「き川有尾」、「芦馬」といった割烹で、大阪らしい豊富な品書きから旬の料理を選ぶ喜びや、上品なダシが染みた「万ん卯」のおでんを味わう夜、したたかに酔った二時頃に、「御岳さん」や「讃岐路」のうどんで小腹を収める儀式などを通じて、いっぱしの新地通、一流の大人になった錯覚も味わった。

錯覚を運んだのは、手が届かないゆえの格好づけだった。

背伸びして過ごす夜は(特によそ者としては)、たまらない誘惑を呼ぶ。

しかし経済の急落と交際費の課税強化で、新地は変容しつつあるようである。

キャバクラが増え、カジュアルな店も増えた。

ぼくはその一軒、ワインバーの「クロ・ド・ミャン」にはまっている。フレンチ顔負けの料理の見事さもさることながら、スタッフ全員の客を楽しまそうという心根がいい。

それは、新地が長年築いてきた”もてなしの心”が受け継がれているからに他ならない。