荻窪の「丸福」事件

食べ歩き , 日記 ,

人の手に汚れていない、純真な魂

荻窪の「丸福」が、超人気店だった30年前の話だ。
店はまだ青梅街道に面していて、当時の人たちは怖かった。
愛想がない。店に入って待ったり、ガラス戸をすぐ閉めないと怒られる。
ある師走に並んでいると、50くらいの男性に話しかけられた。
「ここのラーメンうまいんですってねぇ」
「はい」。
「いやあ私船橋なんですが、丁度結こっちくる用事があったんで、寄ってみようと思ったんでさ。で、なにを頼めばいいんですか?」
「煮玉子が乗った中華そばが人気です」。
「煮玉子? そりゃあうまそうだ。煮玉子そばですね」と、嬉しそうに笑う。
「はい。そうです」と答えると彼は、。
「煮玉子そばかあ。楽しみだなあ。煮玉子そば。煮玉子そば。煮玉子そば。煮玉子そば」と呪文のように唱え始めた。
僕が先に入り、中華そばを注文していると、彼が入ってきた。
座るなり、「煮玉子そば下さいっ」と、弾んだ声で注文する。
店の親父はその瞬間、返事もせず、じろりと睨みつけたかと思うと
「そんなもんないよ」。
ああなんたることだ。煮玉子がのったそばの正式名は「玉子そば」なのだ。
注文した彼は、唖然として言葉を失っている。
「あの~。玉子そばの事じゃないでしょうか」とすかさず助言をすると、親父がこちらをじろっと見て、
「ああそう。玉子そばね」と作り始めた。それくらい察してやれよ。
彼を見ると、安堵の表情で、こちらに微笑んでいる。
彼とほぼ同時に終わるように食べ終え、外で挨拶をした。
「すいませんねえ。気まずい思いをさせてしまって」というと、
「いやいや、とんでもありません。おかげさまで、おいしいラーメンを味わえただけでなく、スリルも味わえましたから」。