「レストランに出かけるということ〜ウルトラ・ヴァイオレットにて」
レストランには、おいしいものを求めるためだけではない意味があるように思う。
それは「非日常」を楽しむという目的である。
普段食べることの叶わない豪華な食事や、瀟洒な内装に酔ったり、異国情緒や古き良き時代に旅したりすることを楽しむことができる。
あるいは、優れた職人仕事を目の前で触れることもできよう。
これらの体験を、家族や他人に関わらず共有、共感する素晴らしさは、なにものにも代えがたい。
上海の「ウルトラ・ヴァイオレット」に出かけて、そのことを深く考えさせられた。
食べたのは、3パターンある料理のコースの中から、最初に作ったという「A」である。
料理の基盤となっているのは、おそらくシェフの出身地や修業先、旅先でも想い出が投影されたオーソドックスなもので、それが現代風に再構築されて、音楽やプロジェクションマッピングとともに演出されていく。
全21皿。その全てに入念な映像と音楽がつく。
音楽やプロジェクションマッピングを料理と組み合わせるのは、資金とスペース、人を確保さえできれば、誰でもできるだろう。
しかしそれだけではない、非常に人間臭いポールシェフの人柄や、想い出とそこで出会った人々への敬意と愛、そしてユーモアを強く感じたのである。
こうしたら驚くんじゃないか。これは新しいぞ。というような企みや狙いより先に、自らをさらけ出した表現がある。
10万円という高額ゆえに、その価値は妥当なのか? ミシュラン三つ星の意味があるのか? ということが取りざたされやすいが、食べる客にもリテラシーが必要であり、「そんなことは忘れて僕と楽しもうよ」というメッセージが送られてくる。
だから虚心坦懐に受け止め、心を裸にして楽しめる人でないと、このレストランの意味は見いだせないかもしれない。
それはつまり、レストランという存在が「情報」になりすぎている時代へのアンチテーゼなのかもしれない。
我々は、もっとノーガードでレストランに出かけなければいけない。
体験していて、ふと「ブルーマン」を思い出した。
一見無意味で、無機的な動作や演出の中に見える人間らしさと、自分を客観視することによる、シニカルな笑いが共通しているように感じたからである。
料理もこうした演出も、皿から飛び出してはいけない。
だからこそ、表面上ではない「非日常」を楽しめるのではないか。
そう思ったのである。
追記
「ではあなたはもう一度行きたいと思いますか?」という質問が来ると思う。
答えは簡単である。
行きたいか行きたくないかではない。
答えは相手側にはない。
こちら側のあらゆる「余裕」の問題なのである。