そこには、アジのすべてがあった。
刺身や寿司での、豊かで滑らかな脂の香り。
生きのいい奴を塩焼きしたときの、隆々たる筋肉が見せるうま味。
そしてそのどちらでもない、舌を撫でてからみついてくるしなやかさ。
生きとし生けるものの発露が、口の中でうごめく。
食べた瞬間に、頭をのけぞらせて唸る。
「ううむ」と言った後に続く言葉は、「エロい」である。
駿河湾の定置網で上がった中に4匹しかなかったという、丸々太ったアジを、サスエ前田さんが手当てし、志村さんが揚げられた。
実は以前もこの見事なアジに「成生」で出会ったことがある。
まな板に乗せられたアジを見て、目を丸くし、期待を膨らませた。
しかし待てど暮らせど出てこない。
聞けば、さばいて見たら今ひとつだったのだという。
そのときの話をすると、「期待以下の時は、切り替えた方がいいんです」と志村さんは言われた。
期待以上のアジが目の前にある。
切られた断面は、血合いの赤色を濡らし、輝かせて、誘惑する。
血抜きはしていないのだという。
それゆえの血の味がある。
爽やかな鉄分が、口の中でしぶきを上げ、躍動する。
前田さんが、志村さんが、駿河湾と漁師に感謝をし、敬意を払った魚が、生き生きと舌の上で跳ねる。
それこそが色気なのである。