学校の帰り道に、漂ってきてはいけないもの。それはカレーとすき焼きの匂いである。
我が家も同じであってくれ。切ない思いで帰宅するが、大抵は、まったく違うおかずがでてきてしまう。
この二つの料理の匂いによる食欲喚起力は、強力である。
ことにすき焼きは、実に日本的であリ、食欲を煽るように、巧みな技が仕掛けられている。
古来より好んできた醤油の香り、そこに砂糖の焦げた香りと肉の香りが加わるのだから、たまらない。
砂糖の糖分、肉のタンパク質、油脂分と、栄養的にも本能が好むものばかりである。お腹をすかさなくてどうするんだという、大変危険な料理なのである
このすき焼きの歴史は浅く、発祥は幕末である。
最初の店は、151年前、1862(文久2年)年、横浜入船町の居酒屋を「伊勢熊」が始めた牛鍋屋が、最古であるとされている。
それ以前獣肉は、現在も健在の1718年創業の両国「ももんじや」のように、一部の店で「薬喰い」として食べられていた。
猪は山鯨鍋として親しまれ、これが現在のすき焼きの原型と言われている。
落語「二番煎じ」にも登場し、人々がこの山鯨鍋を、いかに憧れていたかという風景が映し出されている。
しかし主体は、害獣の猪や鹿であり、役に立つ馬や牛は食べてはいなかったが、ごくまれに食べることもあったという。
続いて、1867年(慶応3年)に江戸で最初の牛肉屋を開いた「中川」が、東京・芝に牛鍋屋を開業し、1868年(明治元年)には、横浜で「太田なわのれん」が開業する。
明治二年、神戸市元町に「関門月下亭」が開店。湯島「江知勝」と「柿安」の開店が、明治4年。京都「三嶋亭」の開店が明治6年と、全国に続々牛鍋屋が出来ていく。
そして明治8年、明治天皇が初めて牛肉を召し上がられて、「健康を保ち衰弱を復するには、牛肉が最適である」と肉食が礼賛され、一気に火がついた。
文明開化のシンボルとして人気を呼び、明治10年、東京の牛鍋屋は550軒を超え、明治初頭の東京では、毎日1万5千人以上が、「牛鍋」を食べていたことになるという。
現在の東京都と人口比較して考えれば、55000軒もあることになり、現在東京都にある寿司屋や蕎麦屋の数より多かった小音になるので、もう「歩けば牛鍋屋にぶつかる」状態だったのだろう。
仮名垣魯文の小説『安愚楽鍋』(明治4年)にも、「士農工商老若男女。賢愚貧富おしなべて、牛鍋食わねば開花不進奴(ひらけぬやつ)」とあるように、あらゆる層の人がはまった、一大ブームだった。