レモンは気位が高い。
一個五十円程度の安価な身分であることなぞ、微塵も気にしていない(一個四百円というレモン様もいますが)。
親戚のみかんやオレンジ、ライムと比べても、どこか気取っていて、よそよそしい。
手に取ると、「ほら絞ってごらん、でもあなたにその価値はある?」 といわれて、「すいません」と、あやまってしまう。
明治より栽培され、昭和三十九年には柑橘系のトップを切って輸入自由化されたのに、いまだ日本家屋には似合わない。
コタツに持ち込めない果物の一つである。
輸入品であろうが国産であろうが、心は遠く、イタリアやカリフォルニアの太陽を浴びている。
こ憎らしい。
梶井基次郎「檸檬」の主人公は、こんな性格を陵辱したくなって、丸善における放置プレイに至ったのだろうか。
性格は、どうやら人々に伝播していった歴史によって、形成されたようである。
インド北部、ヒマラヤ山脈の山麓に生まれ、ユダヤ人が栽培を始め、古代ローマ人が広め、アラブ人が料理に使うことを考案し、十字軍によってヨーロッパに持ち込まれ、コロンブスによって渡米した。
ギリシャ神話では「黄金の果実」と呼ばれ、除虫や解毒、強壮剤としての薬用や、香水用、観賞用として珍重されてきた自負が、綿々と受け継がれている。
だがその自負は、現代ではおとしめられ、無視され、軽んじられ、ぞんざいに扱われている。
コーラに浮かんだレモンの輪切り、もみダレをまぶした焼肉皿に添えられたレモン。
駅弁に入った乾いたレモン、チェーン居酒屋の生レモンハイにおけるレモン。
焼き鳥に添えたくし型レモン、コロナビールの瓶口で身を縮めているレモン。
レモンの香気と爽やかなイメージ、色合いが安易に利用されている。
黄色は、心理学的に「甘え、依存、求愛」の色合いだそうだが、求愛は見当たらず、料理を供す側の甘えと依存心が滲み出ている。
レモンが主に使われるのは、味わいの補完である。
代表例が、エビフライや鳥の唐揚げといった揚げ物料理であるが、この時の扱いに、いつも悩む。
「かけちゃって、よろしいですか」。
大皿の場合、気の早い人は同意を待つまでもなくジャーッとかけまわすが、その光景を見るたびにいたたまれなくなる。
鶏もエビもレモンとの相性はいい。
だからといって無条件にかけてもいいってもんではない。
衣がしなしなになってしまうじゃありませんか。
かかり具合に差が出来るじゃありませんか。
かけたてが、一番香りが立つじゃありませんか。
食べるたびに少量ずつ、垂らす。
これが理想だが、なかなか難しい。
まあでも、こうして扱えば、レモンも少しは喜んでいたただけるんではないかと思っている。