黒猫のタンゴ、圭子の夢は夜ひらく、辺見マリの経験が流行っていた1970年。僕は高校に進学した。
高校入学と同時に、「美術手帖」の定期購読を始めた。
「美術手帖」がなかったら、ZAPPAとの出会いもなかったかもしれない。
「美術手帖」は美術雑誌でありながら、植草甚一さんの連載があるなど、音楽の記事も多かった雑誌である。
ある月に、宮澤壯佳編集長が書いた「サイケデリックからフリークアウトへ」という音楽記事を読んで、衝撃を受けた。
モビーグレイプ、キャプテンビーフハート、そしてフランクザッパのことが書かれていたのである。
中学時代の映画少年から、高校に入ってロック少年と変わりつつある人間にとって、どれも知らない名前である。
当時流行っていた洋楽曲といえば、ゲスフーのアメリカンウーマン サイモンとガーファンクルの明日に架ける橋、ビートルズのレットイットビー 、カーペンターズの遥かな影 、ジャクソン5のABCやアイルビーゼアなどである。、
アルバムは、CSNYのデジャブ、ジョンの魂、原子心母、フーのライフアットリーズ、エルトンジョンやレオンラッセル、EL&Pのデビュー盤といったところである。
その文は熱く、カウンターカルチャーを知るためにはなんとしてもこれらのアーティストを聞かなくてはいけないという思いが、掻き立てられたのであった。
そしてロック初心者(つまり有名曲しか知らない)は、池袋のYAMAHAで、「チャンガの復讐」を購入したのである。
針を落としてのけぞった。
正直にいえば、ポップ・ナンバーの「テル・ミー・ユー・ラヴ・ミー」や、ゆったりしたブルース風の曲「ロード・レディズ」、「可愛いいシャリーナ」、タイトル曲の壮絶なギターソロ以外は、どこがいいのかわからない。
理解不能であった。
ザッパファンの中で賛否両論を呼ぶこのアルバムは、寄せ集めで、あまりコンセプトがない。
しかし初心者にとって、ザッパの多彩を知る意味では、価値がある。
理解不能ということが悔しく、何度も聞き返した。
そうすると、次第にザッパという沼にはまっていったのである。
次に買ったのが「イタチ野郎」である。
これまた寄せ集め的アルバムで、さらに体ごと沈んでしまった。
そして次に買った「ホットラッツ」では体中の血が沸騰し、もう抜け出せなくなったのである。
結果といして53枚に公式アルバムはすべて買い、死後に新たにリリースされたCDもあれば、ブートレッグもかなりの数を集めた。
もちろん内田裕也が主催した浅草公会堂での浅草ロックフェスに出演したザッパも、試験中だったのにかかわらず見にいったし、追加公演の日本青年館も見て、熱狂した。
あの時美術手帖を購読していなければ、おそらくありえなかったろう。
人生は運命の連続だ。