「軽井沢行って、必ず食べたいものはなんですか?」
と聞かれて、
僕は考えるふりをした。
答えは決まっている。
「かぎもとや」の大ざるだ。
ここのそばは、産地も定かではなく、
石臼ひきでもなく、
十割でもない。
太さも長さもバラバラで、
量が多いとはいえ、900円と高い。
ワサビは粉ワサビで、
葱はさらしてはいないし、
つゆも甘めで締りが悪い。
東京のグルメ評論家が口にしたら
<strong>「論外」</strong>と酷評されるに違いない。
しかし僕は断固として、「かぎもとや」</strong>に行く。
塩沢の「志な乃」のそばはうまいし、 軽井沢駅側の「弦庵」もなかなかだ。
「川上庵」も「満留井」も悪くはない。
足を伸ばせば「ひょうろく」もあるし、 「東間」は、東京の名店と比する実力なれど、 軽井沢まで来て、コースで食いたくないし、 バッハの無伴奏ソナタを聴かされながら食いたくもない。
「かぎもとや」は現在のそば屋進化からは立ち遅れているけど、 ここにしかない「そば」なのだ。
大きな理由は小さい頃から食べ続けていることもある。
昭和40年代の小学生にとって、そばといえば近所の店屋物を示すものであり、 ちょっと伸びたそばであり、汁が染みこんだ天ぷらであった。
店で食べるということは皆無だった時代に出会った「かぎもとや」は衝撃だった。 「そばとは、こんなにもおいしいんだ」。と目を丸くした。
吉川英治氏や名優の写真が飾られた店内で、大人たちに混ざって食べるそばは、 禁断の、背伸びの匂いがした。
ずるるっとすすれば、 無心に食べる僕に声をかける、 亡き祖母や祖父、父の声が聞こえてくる。
いくら東京や全国でうまいそばを食べても、 「かぎもとや」のうまさだけは、頭の中で明確に分類されているのである。
微妙なアクセントが弾む、太さばらばらの麺。
小麦粉入りのもっちりとしたコシ。
大根おろしの辛さで締める、甘いつゆ。
そば前に出される、キャベツと胡瓜、大葉の浅漬け。
変わらぬもの、ここでしか食べられぬそばなのだ。
今夜も一人。
天ぷら盛り合わせ
とけんちん汁で 、ビール大瓶と冷酒でやって ほろ酔い気分で、大ざるを手繰った。
幸せ。
「おいいしいもん」を探し続ける旅は、
「昨日までおいしかった料理」が普通になっていく、
「識る悲しみ」を伴う。
だからこそ僕は、いまだに「かぎもとや」に固執する「嗜好」を、
生涯大切にしたいと思う。