「カツ丼の似合う男になりたい」。
18で志を立てて32年間、カツ丼とは真摯なお付き合いをしてきた。
理想は、「幸せの黄色いハンカチ」の、務所帰りの高倉建である。
まだ到底その域には達していないが、「ああカツ丼にすりゃよかった」と、隣の客を後悔させる、おいしい食べ方は精進してきた。
牛丼や天丼など、ほかの丼ではこういう願望は生まれない。
カツ丼は男を発奮させる。男の度量が試される。
カツ丼には、「カツ丼でも食べようか」という”でも的”発想はなく、「よし、今日はカツ丼食っちゃうもんネ」。と、”よし的”決意が伴う。
そして決意は裏切らない。ご無沙汰していた人もひとたび食べれば、、「食った食った」と満ち足りた気分になり、自分の決意に感謝する。
ではカツ丼を食べよう。
目前に運ばれて、立ち昇る丼ツユとラードの香り。
丼ツユを吸って太り、しとやかに光るかつ。
彩り添えるグリンピース。
固まりかけた黄身と膨らんだ白身のコントラスト。
見え隠れするタマネギ。
その下で待ち受けるごはん。
「いくぞっ」と、鼻息を荒くすれば、「さあ来い」と、カツ丼が答える。
玉子のかかっていない端のカツを口に運べば、衣はサクッと音を立て、ダシの染みた衣に歯が入り、肉にめり込んでいく。
思わずにやり。
すかさずご飯を掻きこめば、「カツ丼だカツ丼だ」というドーパミンが分泌し、体内を駆け巡る。
カツは、丼になることによって蒸され、ごはんと歩調を強めていく。
そんなカツの姿勢を生かすには、ひたすら掻きこむべし。
掻きこむことこそ最上の食べ方で、カツ、ごはん、玉子、ダシ、タマネギの渾然一体感が増し、箸を持つ手が加速する。
途中はがれた衣を繕い、衣の切れ端やタマネギだけでもごはんを楽しみ、掘削したごはんの断層で、ダシの染み込み状況を確認することも忘れず、充足の終幕へと向かっていく。
カツ丼はなぜ、かくもおいしく、気持ちを奮い立たせるのか。
それは、とんかつだぁと威張っていたカツが、よりおいしくならんと、ダシや卵、たまねぎやご飯と一致団結して努力しているからである。
食べ手の立場に立った相互努力とシナジー効果に、深い愛情を感じるではないか。
だからこそ心が突き動かされ、取調室で白状したりもするのである。
こうして長年カツ丼と勝負? してきた人生の中で、望むべき姿も絞られた。
一つは、ごはんと合体化しやすいようカツは薄いほうがいいこと。
一つは、揚げたてであること。一つは、発奮度を高めるために蓋つきであること。
「薄くて、揚げたて、蓋しめて」の「三て主義」が、僕のカツ丼理想である。
ただし、この理想に出会ったとしても、食べ手として自分は、まだ理想ではない。
そのことを自省しつつ、今日もまたカツ丼を食べ、男を磨くのだ。
甘くもなく辛くもなく、ほどよく衣に染み込み、ごはんにからんだ丼ツユ。半熟よりやや火が通って、優しくカツを抱擁する玉子。ダシを受け止めながらも、自らの存在感を示すおいしいごはん。甘みを支えるタマネギ。そして、薄くとも肉の滋味を感じさせる揚げたてのカツ。