<食べることは殺すことから始まるVOL2>
滋賀食肉センターを見学させていただき、素直に思ったことを書こうと思う。
(またここから先は、直接的表現が続きますので、気が弱い方はパスしてください)
放血され、顔の皮が剥かれ、片足の先を切断され、逆側の足も切断される。
脚先は廃棄されるのだという。
需要がないからであろう。
それを見て思う。
脚先でスープをとったらうまかろうなあ。
皮を剥かれた顔の目は、かっと見開かれている。
やがて舌は取られ、頭は切断されて、内臓処理部門の部屋に運ばれるが、その姿を見て思う。
ほほ肉、ツラミなど顔の部分で食肉となって行く部分はあるが、脳みそはともかく、鼻やまぶたは食べられないのだろうか?
なにかこうして、屠られ解体される牛を見ていると、可食可能ならば、すべて食べたいと思う。
もちろんそれはこちらの都合で、食肉センターで働く人々の労働を考えれば、無駄なことであることはわかっているのだが、素直に“食べてみたい”と思った。
腎臓だけを枝肉に残した内臓摘出、サガリの切断、皮の剥き、そして肝心な背割り。
何人もの人たちが、熟練の技術で作業していく。
素早く、丁寧で無駄がなく、一部の筋膜以外捨てるものはない。
肝臓が湯気を立てながら切り取られ、横たわるのをみて思う。
もう生で食べることは叶わなくなったが、その姿をみた人は、まず生で食べようと思ったに違いない。
それだけ、命の躍動感に満ちて、養分を取り入れたいという人間の本能に訴える。
内臓を取られ、枝肉となった肉を見て思う。
冷やされ、静かになった、今まで見て来た枝肉とは全く違う、
濡れて、生暖かい肉の前面にびっちりとついた皮下脂肪が、てらてらと輝いている。
自分の体は差し置いて、その皮下脂肪の多さに驚いた。
ジビーフや吉田牧場のブラウンスイスは、この皮下脂肪があまりないという。
様々な角度から“牛肉をいただく”意味を考えさせられる。
実は昨夜も、牛ヒレ肉とランプ肉をいただいた。
グラム数はどちらも10グラム程度で、湯にさっとくぐらせて、ソースをかけたものだった。
あの現場とは、遠く遠くはなれた食べ物である。
だが噛み締めながら目を閉じ、気絶し大量の血を流され、目を見開きながら処理されていく牛の姿を、まぶたの裏に浮かべた。
これからも、多くの牛をいただくことだろう。
だができることなら、あの光景を思い浮かべながら食べたい。
命への感謝をしながらという言葉も、もう簡単には使えない。
今は、安易に、簡易にいただくことのできる料理の向こう側に広がる深淵を、ただただ心に刻み続けたいと思う。