肉と会話しているステーキだった

食べ歩き ,

肉と会話しているステーキだった。
祥瑞時代の茂野さんが焼くステーキは、どうだっと舌に迫り、肉汁を滴らせながら、ワインを飲めと叫ぶ。そんなステーキだった。
その荒々しさに惚れて、何度か食べた。
独立されて、京都で奥さんと二人で始めた小さな店に、初めて訪れた。
ハーブ牛のランプとサーロイン。
変わらず荒々しい。ワインを飲めっと叫ぶ。
しかしそこには、以前はなかった「繊細」が生まれていた。
牛の育った環境まで思い浮かべ、その牛に敬意を払いながら、その個性を生かすにはどう火を入れるべきか。
牛と対話し、自分と対話して生まれた、繊細な風味が心を打つ。
ステーキという料理が持つ雄々しさも、フランス料理としてエロティシズムもある。
しかしその中から、水の国で育まれた和牛ならではの、しなやかで切ない滋味が顔を出す。
それが心をじらし、牛への感謝が自然と湧く。
優しい気分が去来するステーキ。
こんなステーキは初めてかもしれない。
そのことを茂野さんに伝えると、「荒々しさが無くなったとか言われる方もいるんですけど、自分としては、以前の勢いに力をかけていたステーキとは違って、それぞれの持ち味、個体差などを、どう繊細に生かせるかを考えています」と、特有の優しい目を細めて、はにかむ。そして
「焼ける音や、出てくる泡の大きさ、匂いなどに、神経を凝らしています」と、言葉を強めた。
以前彼のステーキを食べたとき、あんな優しい目をしたシャイな青年から、どうしてあんな猛々しいステーキが生まれるのだろうかと、不思議に思っていた。
しかしその目は、遠く、牛のことを思いやる視線だったのだ。
そしてこの地で、茂野さんのステーキが、誕生した。
いやまだ道半ばかもしれない。
「On devient cuisinier, mais on naît rôtisseur.料理人には誰でもなれるが、焼き肉師は天性の才能が必要である」というブリア・サヴァランの言葉を噛み締めながら、しばしこの店に通いたいと思う。